葛藤して、前へ(vol.2)
- 避難所でのボランティア活動
前回知り合った健康食品メーカーの方から、ボランティア活動を通して、現場で起こっていることを体感して欲しい、とのご連絡があったそうだ。
再び気仙沼へ行くことが、こんなにも早く実現することになるとは、戸惑う反面、見送れば必ず後悔するという気持ちが勝り、今回も参加させていただくことに。
連休の東北自動車道は前回と違って、自衛隊も赤十字の車もほとんど見られず、観光バスやマイカーが目立つ。
場所によってだが、前回より街から瓦礫が撤去されているようだ。
- 避難所H中学校
流され泥まみれになったアルバムの写真を取り出し、ひとつひとつ真水で洗って乾かし、ファイリングをして、持ち主を待つ。
泥だけでなく、海水の中のバクテリアだろうか、写真についている馬油に侵食し、インクが溶け出し劣化が酷いものが多い。
海水ではこうはならないと、派遣されたC社のボランティアチームは「原因不明、持ち帰り慎重に調べている」と話す。
船から流出した原油とも考えられるが、水没して更に焼け焦げた写真を見て、健康食品メーカーO社長との昨夜の話を思い出す。
「地震が、津波が、雪が、そして火事が」逃げ惑う人々に、これでもかと襲い掛かる惨事。
燃え広がる街を見て「もうここは終わった」とその時は誰もが諦めたと話す。
この中学校の卒業生答辞「天を恨まず」。どれだけ重い言葉なのか。
- イチゴ農家Tさん
日焼けした肌で地元民のように馴染んでいるが、彼は東京都出身、前職はエンジニア。
7年前「夏のイチゴを作りたい」という情熱を持ち、環境が適していると今まで縁も無かった宮城県へ移り住む。
通常イチゴは冬から春にかけてだが、6月から始めることで、未開拓分野であった夏イチゴ生産の実現を図る。お客さんの声を聞く農業をやってみたいという思いで、試行錯誤を重ね、研究の日々。
3年目で手応えを、4年目で適地と確信、ようやく実績が出せたのは昨年。
まさにこれから、という時。
自宅は被災しなかったが、イチゴ畑は壊滅した。ライフラインが整備されるまでは、体育館に1500人という一人半畳の避難所生活をする。
その後、妻と5ヶ月の子供は実家に身を寄せたが、自分はイチゴを再建したい、その情報やタイミングを逃したくない思いで、一人気仙沼に残る。
しかし再建は、まだ道すら見えない、当面は様子を見る状況。
衣食住が整った2週間を過ぎてようやく、避難所入口に海岸沿いや瓦礫から発見された山積みになるアルバムを、どうしていいものかと皆持て余す。
そのまま放置していれば確実に腐食し、破棄せざるおえなかっただろう。
Tさんがたまたま新聞に、汚れた写真を綺麗に修復する方法を読み、写真メーカーへ連絡しノウハウを聞く。
未開拓分野への第一歩、イチゴ同様「一人でも多くの人に喜んでいただきたい」この信念から、写真救済プロジェクトが始まる。
まずは写真の洗浄、しかしただ雑然と写真を置いていても、持ち主が探す作業はかなり時間を費やすので、メーカーなどから簡易のアルバムや保護フィルムを送ってもらい、アルバムごとに整理し、テントに書棚を作り、持ち主に探しに来てもらう。
腐敗が始まるものから、洗浄作業、泥を拭いて済むアルバムは出来るだけ現状のまま持ち主に返したい、それぞれの経験を活かしながらその場その場で判断して作業していく。
「顔の一部だけでも残っているからこれは渡してあげたい」
「腐食と半分以上燃えている写真、受け取る側の気持ちを考えると、辛いかも。残すべきなのか・・・」
「どうにか綺麗に残してあげたい」
ボランティアが、流れ作業ではなく、一つ一つ丁寧に、必ず持ち主に返すという希望を持ち作業に取り組んでいる。
ここには、神妙な面持ちでボランティア作業をする人などいない。
Tさんの祈りと思いが、ボランティア全体で共鳴しあって、皆楽しんでる。
「私の写真があった!高校生のときのプリクラまであったんです。有難うございました」
短いボランティア期間で、目を潤ませながらアルバムを抱えて帰る人たちを何度か見届けることができた。
Tさんは自分の作るイチゴが気仙沼の地産池消外商となるよう、イチゴ農業の復活を、気仙沼の復興を目指し、今自分が出来ることを探して、前へ進む。
一つ一つの作業が全てそこへ繋がると信じて。
- 写真救済プロジェクトの課題
Sさん親子は静岡から。ピアノを持参し、夕食後、避難所生活の方々の前で高校生の息子がライブを行う。ボランティアの休憩時間を使って我々にも披露してくれた。
Sさんは、見知らぬ人との交流を通して、日を追って逞しくなっている息子を、優しい目で見守っている。
ボランティア同士、ここでも飛び交う情報は、貴重なものが多い。
Sさんに誘われ、皆で地元の銭湯に行ったときには、更にそれぞれが情報を得てくる。
「大島に流れついたアルバムがたくさんあるが、どうしていいか分からずそのままになっていた」 銭湯で一緒になった地元の方の情報をSさんがキャッチし、Tさんへ報告。
Tさんは「ここにそういった場があることが、まだまだ浸透していない。もっと広めていかなくては」
Sさんも「流れ着いた写真を、梅雨前になんとかしたい」
二人は気持ちを募らせる。
前回も感じた情報の錯綜、まだまだ現地で感じる場面がある。
- ミッション
被災者と支援者という位置で話をしても、交流は出来ないということを推察し「一時期だけでも同じ生活を共にする被災しなかった他県の人間」というポジションで接することに。
今回の同行者の女性と慎重に行う。
きっかけが作れるか我々二人緊張を隠せない。しかし、元気よく挨拶をして嫌な顔をする人はいない。
「津波が海のある逆側から来ると思わなかったよ」
漁業と農業を営む70代男性は、ご近所同士3人で避難所のスペースを共有している。
「家も船も畑も、何も残らん」
「津波が押し寄せ庭にいた妻が流された瞬間、隣人が手を伸ばし掴んでくれ、九死に一生を得た。一瞬の出来事だった」震災の日からこれまで、そしてこれからのことについて、穏やかに話す。
男性が話すと、もう一人の男性が補足や解説にまわる、交互に話し手が変わり、第三者へ話すことで、改めて情報を共有し、互いの心の整理を行っているようだ。3人目の男性は我々に背を向け新聞を見ているが、じっと耳を傾け時に彼らの話に頷く。
1時間近く話をしてくれた。
悲しみがあり、憤りがあり、不満があり、感謝があり、全ての感情を少しでも吐き出すこと、感情の昇華作業、第三者へ話すこと、ただただそれが今あるニーズではないかと思われる。
また避難所のスタッフとも話をする事が出来た。マスコミでもない我々の質問に丁寧に答えてくれる。彼も被災者、心の整理が付いていない中、避難所で次から次へと仕事やトラブルが発生する、震災から今まで、精神的な重圧は計り知れない。
多忙で未消化になっているスタッフの心の葛藤を傾聴することによって、改善されることは多いのではないか。話の途中「トイレットペーパーが無い〜」の声に、我々に頭を下げ、ロール紙をいくつも抱えて走り去っていった。
- 同じ釜の飯を共に
翌日の仕込みで何十キロの玉ねぎを黙々と剥く自衛官達に、頼もしさを感じる。話しかけると屈託の無い笑顔が返ってくる。
同じ釜の飯を共にしてください、というスタッフのご好意に甘え、我々も体育館に宿泊させていただくことになった。これは今回きっかけを与えてくれた健康食品メーカー社長たちからの要望でもある。
避難所は9時消灯。大きな箱が真っ暗になる。
ボランティアスタッフは舞台上が就寝スペース。体操用マットに銀マットを引き、お借りした赤十字の毛布をかけて横になる。年配の男性が30センチ隣で既に深く眠りについている。
まだこの避難所にへ来て12時間。
多くの体験がありすぎて、どこから手をつけていいか、頭の中を様々な思いが駆け巡る。
被災したM市議もここで生活する。
スポーツマンとして体格もよく、存在だけで頼もしく感じる。
考えがまとまらず、早起きしすぎた翌朝に、M市議に外につるされた何十とある鯉幟のことを教えてもらう。
よく見ると鯉幟はそれぞれデザインが違う。無地の鯉幟を作り、それを購入した人が各々好きなようにメッセージや配色をする。購入資金を募金とし、鯉幟と一緒に届けてくれたそうだ。
鯉の中にサメもいくつかぶら下がっている。「気仙沼だけに」市議は笑いながら話す。
体育館の所々に全国からの手造りのメッセージカード、手紙など、団体や個人から、沢山見られる。
- きっかけ
一人の女性が以前写真が見つかったとのことで、現場へ来てくれた。
交流するうちにテント内へ入ってきて、腰をすえ、他の知り合いがいないか、作業をし始める。いくつか該当者を発見したようだ。
彼女が、翌朝お菓子の差し入れをしてくれた。自分の家の客のように。
「昨日は冷えたね、舞台寒かったでしょう。ごめんね」
初めに会ったときより、明らかに女性の表情が違う。
戸惑いながらも、きっかけを待っている。我々と同じように。
避難所で話している際に、座布団まで出してくれた70代女性へお別れを告げに行く。皆で写真を撮り送ることを約束。
同行した彼女は、「二人で飲んで」と女性達から牛乳のお土産を貰ったそうだ。
震災後、誰しも行動する「きっかけ」を待っている、被災地に限らず、どのポジションの人でも。 そう感じることは今でも多い。
ボランティア活動を現地の皆と一緒にしたい、その想いが形になる「きっかけ」がまだどこにあるか分からないが。
自分自身も待っていたように、そのチャンスがあると信じたい。
気仙沼シーベリー高井晋次 さん ブログ
階上中学校卒業式 答辞「天を恨まず」