葛藤して、前へ(vol.3)
- 3度目の気仙沼
これで、3度目の宮城県気仙沼市。
慣れからくる感覚の麻痺を避けるためにも、前回以上に慎重にと、やはり緊張してしまう。
被災現場各所、重機がたくさん入っていて、多くの瓦礫が撤去され、更地化しつつある地区も増えたが、まるでミニカーを叩き付けたように、建物や崖にありえない角度で、突き刺さる車も未だそのまま。手付かずの所もまだ見られる。
2回目の避難所、自分が変化し始めたか、それとも仮設住宅入居へもうすぐという状況で、復興へ速度が出てきたのか、皆が明るくなって、距離が近いことを感じる。
忙しく走り回る避難所スタッフの観光課のHさんが、到着早々、寝る場所や寝具などの説明をしてくれた。遠い親戚が泊まりに来たかのように、受け入れてくれ「あなた達をちゃんと覚えてます」と笑顔で対応してくれる。
芸能人もたくさん来ているこの避難所「一度きり」に、きっと慣れてきているのではないか。 前回来た際、一緒に撮影した写真を送ります、と70代の女性に約束したが「(大物歌手の)K.Sさんもそう言ってたけどね」とその場限りの善意は何度も経験しているんだろう。
- 復興の原点
避難所の食事は全て自衛隊が管理している。 部隊が交代する日、月に1度、今日だけは、自分達で食事を作っているそうだ。
調理室には他県ボランティアの栄養士と、リーダーのコック長が工夫しながら献立を決め作業を進めている。聞けばコック長は縫製の仕事をしていたそうだ。津波で家も会社も流され、この避難所で妻と小学生の息子と生活している。
職人系の分野だからか、料理のセンスも手際も素人とは思えない。
しかし、ここは全部で避難所を3つ管理し、食料物資を取りに来る在宅の人も抱えているので、数百人分、分量配分はやはり難しい。
配布が始まり途中「スープが足りない」と業務連絡があり、コック長が、補える食材を探し急遽指示を出す。慣れない我々は慌てて、戸惑いながらも下ごしらえ作業にかかる。
出来上がった夕飯をスタッフ全員で食べる中、コック長はそれでも次の作業へ動いている。見えない誰かに支えられているのではなく、皆で考えて自分達で出来ることを探して行動している。
現在、ここには被災者はいない。
前回「あなた方が都合の良い方を選択して構いませんが、できれば同じ釜の飯を」と言われ、一緒に食住することで、急速に受け入れてもらえたことを思い出す。
仲間へ、そして関わる人へ、皆を支える「心のこもった食事」は、復興にかける希望、ここが本当の原点だということに気付かされる。 到着したばかりの我々に何も躊躇無く、数百人分の釜をかき回す作業を含め、その責任全てに関わらせてくれた。
- 写真救済プロジェクトの使命
ますます日焼けし精悍な姿の発起人・責任者のTさんは「仮設住宅へ入居し、体育館が避難所として使用されなくなったら、いずれここも無くなるだろう」と話す。 マイナスから立ち上がる復興に安定は無い。常に変化し続ける。
全国各地に、北海道東川町・東京目黒区・静岡袋井市と写真救済プロジェクトの作業代行所が増えてきている。 写真を郵送すれば、洗浄したものを送り返してくれる写真専門家のボランティアチームだ。
心強いパートナーが拡大していき、Tさんの今後の課題も更に増え、次へ進む。 「このプロジェクトは持ち主に返すことが目的です。たくさんの写真から見つけやすい状況にするため、どう改善するか。客観的に、来た人へリサーチして欲しい」と今回のミッションを頂く。
気が遠くなるような泥だらけに積みあがったアルバム達を、経験を積み、専門家の意見を貰い、試行錯誤を重ね、改善して進歩している。 たかが1回きりのボランティアの意見であっても、良いことはどんどん取り入れる彼の姿勢に学ぶことは多い。
ゼロからスタートしたいちご農業のノウハウが、ここにもたくさん込められている。
滞在中少しでも多く、早くこなそうとしてしまうことに、丁寧に作業している地元ボランティアの女性の姿勢が、作業に慣れてしまってきたことへの「戒め」となる。 彼女は家が流され、一つも思い出が無い。自分の写真を探しながらボランティアに参加し、ここ以外でも食料がまだ行き届いていない地区へ、自分の親戚の食料物資を取り寄せて、炊き出しを行っている。
「このアルバム私のかも」と開いては肩を落とす。「こんなに残ってる。羨ましい」
どんな酷い劣化が進んでいても自分の写真のように彼女は諦めない。 数時間の冷たい水の中での洗浄、我々のようにゴム手袋もせずに素手で作業している。雨が降ればテントの屋根に積もる水を掃きだす。思い出を守るために黙々と、集中力が途切れない。
バクテリアで塗料が流れ落ちる写真に「これは無理」と妥協してしまうが、誰もが最終判断は持ち主に決めてもらうことだと、諦めた写真を元に戻すことを選択する。
人の財産を扱う、どれだけ個人の判断や力量に任されてしまうのか。避難所で関わる仕事全て、プロに近い慎重さを要求されている。
一冊のアルバムでなく、バラバラに保管されていた該当写真を一つ一つ抜き、「私の写真、ありました」という男性がいた。 「20年前のやんちゃしてたときの自分です。まだ知り合う前の妻の写真も見つけました」
10枚程の写真を握り締め「私には自分の物が何も無いんです。本当にこれだけです。有難うございました」深々と頭を下げる。
「鳥肌が立って、もらい泣きしそうだった」ボランティア初参加の男性はこの奇跡のような出来事に驚いたようだ。
写真救済プロジェクト、簡単で決して楽な単純な仕事ではない。
- M市会議員
量のしっかりあるラーメンをすすりながら、ここの避難所を管轄しているM市会議員と「思い出ハウス」で共にランチを。 50代前半元ラガーマンの彼は、家族に政治家はいなく、元々は教師だったそうだ。
「避難所は管理じゃない、運営だ」と話す。
「共同生活、善悪で決めるのは危険なこと。この避難所では皆で考える。そしてどうすればよいか皆で判断する。」
互いに我慢ではなく、どちらが正しいのではなく、手段や方法を探し全員で協力してもらう、どちらもストレスが無い方向性へ導くこと、「出来ないことを考えず、全員が出来ることを考える」この避難所が一つの会社、国家として成り立っていけるよう、責任感と使命感で走り回っている。
そして復興再建には、一日も早い自立。 社会保険など特例雇用の実施「国が緊急雇用制度を、民間団体で仕事が出来るように」と政府の早急な対応を訴える。
仮設住宅の入居はもうすぐ、朝礼のスピーチで市議はこのように話していた。 「仮設にはまだ全員が入れません。3つに分かれた避難所も統合され、また環境も変わっていきます。そして仮設住宅に入った方は、自立していただきます。米を食べるのも、米を買い、炊飯器を買い、ご自身で全て行います。避難所からの配給はありません。」
臨時でも念願の我が家は嬉しい、しかし、2ヶ月間以上守られ続けていた環境から自立するのは、恐怖でもある。実際現地に行かないと分からないことが多い、1000年に一度の大災害、正論で済む単純な話はない。
「今やらなかったら、いつやるんだ。全世界が見ている中、今こそ自国の国民を救う行動を政府はすべき。企業もこの機会を無駄にせず、社会に還元すべきだ」
震災後どこかの市長より露出やアクションが多く、有言実行結果の人、良い事は確認取らずにじゃんじゃんやれと、リーダーとしての資質はこの上ない。 Tさんのプロジェクトもこのリーダーだからこそ、スムーズに進められていると話していた。
M市議、彼は自分の出来る事を、今こそ全力で、そして誰よりも前に進んでいる。
Tさん自身も、BLOGでこのようなことを書いていた。
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【この活動を辞める条件】
津波で流された写真を持ち主に返すことは、仕事だと思っている。自分は、仕事とは人のためになることだと思っているからだ。しかし今、この仕事ではお金は貰えない。だから、みんなからボランティアだと言われる。でも自分は、これはお金を生む仕事になると信じている。 そして、被災地に雇用を生み出せるに違いない。そうなるまで、辞めるつもりはない。
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- 音楽療法士 Wさん
ボランティアセンターの受け入れがなかなかスムーズでないのは、ボランティアを希望する誰もが感じることのようだ。
Wさんは30代前半、音楽療法士資格を習得中。高校卒業後から親の仕事の関係でアメリカに移住するが、元々英語など話せなかったという。 彼女のターニングポイントは、言葉の壁ゆえ微妙なニュアンスは分からないだろうから、サイコロジークラスを選択することを諦めろ、と薦められたことだ。 「では英語の授業も選択します」という彼女の回答に、スクールの担当者は意味が判らないという顔をしたそうだ。
「どんなことでもします。私のミッションは、ボランティアを通して、被災地で今何が起こっているのか、実際に見て、そしてアメリカで真実を伝え、支援を継続させ、風化させないことです」と、強い正義感を感じる。
ちょうどその日は、この思い出ハウス・写真救済プロジェクトに海外向けの日本のメディアが撮影に来ていた。避難所で生活する70代女性のSさんが、倒壊した家からアルバムが出てきたと、このハウスに持ち込んだ。Sさんをはじめ、Tさん、そして我々もインタビューを受ける。撮影はほぼ丸一日かかる。
Wさんから「何かしっくり来ない」その時の心の内を話してくれた。 撮影の合間、プロデューサーやディレクターと番組制作について直接質問していたようだ。
「誰に見せるべきか、誰に訴えるべきか、何のためにこれを放送するのか、その焦点がブレている。」
海外で放送する日本のチャンネル、誰が見ているか、見ている層をきちんと把握しているのか、アメリカに住む彼女だからこそ、その矛盾に気がついていた。
参加したボランティアそれぞれが思うこと、それぞれの観点と感受性、そして自分自身の課題、ディスカッションする帰りの車は初めて知ることも多く、本当に価値がある。
- 東日本大震災 2011.3.11 14時46分
調理室での皿洗いを一緒にしながら、3.11の被災状況と気仙沼の豊かな風土を語ってくれた80代の女性。
持って行った前回の写真を宝物のように扱ってくれる70代女性。
ボランティアで受付をする20代前半の男性スタッフ達、調理当番の中学生、遠方からボランティアで来ている自治労の職員、自衛官、遠方から来る炊き出しのボランティア、整体をする海外宗教団体のスポークスマン、メディアチーム、写真メーカーのボランティアと写真専門家の教授、市議をはじめ役所の避難所スタッフ達。
ここには立ち止まっている人は、居ない。
足が少し弱くなっているにも関わらず、「写真を綺麗にしてくれてありがとう」と、雨の中全員の菓子折りを買いに行ってくれたSさん。
避難所スタッフのHさんも「あのお母さんと被ってなくて良かった」とそれぞれ人数分の菓子折りを渡してくれた。「有難う、本当に楽しかったです」と。
80代の漁師の男性は、前回から一緒に同行しているスタッフMさんの「さんまが大好き」に応えてくれたのか、さんまの出汁で煮た昆布の佃煮を作って来てくれた。
最終日は雨。あまり交流できなかった方も、ここへのきっかけを作ってくれた健康食品メーカーの社長達も見送りにきてくれた。
今日のお昼のボランティアの炊き出しはバーベキュー「絶対食べて帰って」と避難所ですれ違う人、トイレで会う人に声をかけられる。帰宅時間が遅くなることもあり遠慮すると、車の中で食べてください、と折り詰めにして渡してくれた。 炊き出しにお願いして、少し早めに作ってもらっていたようだ。
市役所広報部で撮影した40分間の編集映像。 CDにタイトルが書かれ、それも人数分入っていた。
「東日本大震災 2011.3.11 14時46分」
「1000年に一度の非常事態。これを楽しむしかないじゃないか」とある男性が言っていた。
この言葉を発するまで、どれだけのものを乗り越え、気持ちの整理をしたんだろう。
「この気仙沼を豊かにしてくれた、共に過ごしてきた海には感謝しかない」目に涙をためて。